所在地 | 〒110-0001 東京都台東区谷中6-2-33 | |
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T E L | 03-3828-6795 | |
交 通 | JR 日暮里駅 徒歩7分 | |
開 創 | 慶長16年 (西暦1611年) | |
本 尊 | 阿弥陀如来 |
天正18年(1590)徳川家康江戸入府のとき、旗本大久保七郎右衛門忠世(彦左衛門長兄)も大山不動尊と同木同作と言われている守護神の不動尊を奉持して、神田寺町に安置しました。慶長16年(1611)2月忠世の子忠隣の代に境内地400坪(1,320平方メートル)を賜り、栄松法印を開山として茲に創建いたしました。
これより37年後の慶安元年11月には、当所へ代地を賜り移転して、町名を総持院門前町と称し、明治2年に総持院町と改め、同12年4月に谷中町となります。通称谷中不動尊はこの町名に由来しております。芝崎町の東光院が本寺です。谷中町及び近辺の信者で講中を作り、大山詣りも盛んに行われ、毎月28日の縁日には屋台も出て賑わったと言われています。
家康の長子信康(1579自刃)と、その母築山(今川義元の養女。1579賜死)の母子共に生害されたのを忠隣の孫忠朝深く憐み、元禄11年(1698)120回の御忌辰には、御位牌を当院に安置されてご冥福を祈念されたと言うことです。正五九月には代参を遣わされています。
明治23年4月高村光雲は下谷西町から当院の宅地に転居しています。門構で平家建の家でした。光太郎7歳姉さくが14歳の頃です。光太郎は日暮里小学校に通っており、谷中墓地で友達と元気に遊んでいたと言うことです。
姉のさくは利発で絵が上手で、親思いであり、光雲の無事息災を祈って当院の不動尊に願をかけていました。明治25年9月9日さくは病没します。光雲は娘の死に力を落し、思い出の残る谷中を離れ、千駄木林町に移ります。
当院は関東大震災、戦災共に、幸いにも難を免れております。
昭和9年都市計画による道路新設のため、境内地を斜めに70坪(231平方メートル)削減されました。光雲住居跡も今は道路となっています。昭和34年8月不動堂並びに庫裡の一部を改築し、他は補修を加えて現在に至っております。
徳川信康及び築山位牌 | 2基 |
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麻布着色陪羅婆金剛像 | 1幅 |
麻布着色曼荼羅図 | 1幅 |
麻布着色尊者図 | 1幅 |
以上の3幅は一連の作で、清の嘉慶24年(1819)仁宗の命により、直隷省(河北省)永定河営の武官宋培が作成したものと伝えられています。