所在地 | 〒183-0012 東京都府中市押立町4丁目35番地2 | |
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T E L | 0424-86-4101 | |
交 通 | 京王線/飛田給駅 徒歩17分 | |
開 創 | 不詳 | |
本 尊 | 阿弥陀如来 |
龍光寺は、神明山薬王院と号し、江戸時代は深大寺の末であった。たび重なる多摩川の氾濫により境内地寺領等が流出し、現在の地に移転したらしい。新編武蔵風土記稿(1826)によると、本尊阿弥陀如来坐像のほかに薬師如来立像1躯が記されているが、いずれも現存している。
また、無住のゆえ開山・開基の年月も不明であったと記されている。
天保12年(1841)の深大寺及び同末寺の分限帳に記載されている龍光寺の書上げによると、開基は権律師映純となっているが年月は不詳となっており、明治5年の寺院明細帳では、開基は不明で祐春の中興というのがあり、それ以外は不明である。
また、明治4年に府中善明寺より転住の元昭が、第18世となっている。
堂舎は中興歡勝(弘化3年没)が整備・経営に尽力し、寺観が一新された。
明治33年の火災後再建されたが、老朽化のため、昭和60年に本堂庫裏等が新築再建された。
○本尊阿弥陀如来坐像 府中市重要文化財
この坐像(伝慈覚大師作)は藤原佛と鑑定されている。高さ88㎝・両ひざの間は74㎝とかなり大きな木造佛像である。
長く細く切れた目じり、ふくよかなほおや肩、優美な線を描いて流れる衣紋などが平安貴族の優雅さをただよわせている。
寄木造りで、像の外側はもちろん、内側にも全面金箔がほどこされている。
この佛像は鎌倉時代に目だけ玉眼の補修がなされたものと推定され、頭部だけが金箔の色が異っている。
昭和39年1月9日指定
○川崎定孝墓 東京都指定文化財旧跡
龍光寺内の墓地にある。
川崎平右衛門定孝は江戸時代前期に押立村の名主であった。元禄7年(1694)に生まれ、農業に熱心で、ことに荒地の開発の技術にすぐれ、農民の信望も厚かった。
武蔵野新田開発が迎えた元文2(1738)・3年の大凶作の危機をのり切るため、当時関東地方御用掛を兼任していた大岡忠相から「武蔵野新田世話役」に抜擢された。
寛保2年(1742)の多摩川洪水の復旧工事にも手腕を発揮し、功績により寛保4年支配勘定役に取りたてられ、武蔵野新田地区及び多摩川通り3万石の代官となった。寛延2年(1749)美濃に派遣され、木曽川・長良川の治水事業を主管、美濃4万石の天領の代官となった。宝暦8年(1758)江戸神田佐柄木町玉ケ池に屋敷を賜わり、宝暦12年石見銀山大森の代官を任ぜられた。明和4年(1767)74才にて没した。
昭和12年10月18日指定