所在地 | 〒201-0005 東京都狛江市岩戸南2-10-13 | |
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T E L | 03-3489-5659 | |
交 通 | 小田急線/喜多見駅 徒歩10分 | |
開 創 | 享禄3年 (西暦1530年) | |
本 尊 | 阿弥陀如来 |
嘗て門前は青々とした田圃が一面に開け遙かに多摩川の土手を望む静寂な所でした。盛夏に行なわれた施餓鬼会では、参詣者は欅の大樹に憩い、尽きぬ泉に涼を求めるという今日では夢の様な環境の中に寺はありました。しかしこの地にも都市化の波が押し寄せ、以前の面影は近年急激に無くなり、特に門前の湧水は好適な農作物の洗い場で、これに惹かれ都内から転居したという人もありましたが、もう知る人も少なくなりました。
当山の開創は室町後期で、中丸郷、喜多見等を所領していた喜多見家第13代の江戸駿河守廣重の外護により、台順法師が開山したと伝えています。
当時は養安寺と号し、小田原北条家から喜多見の内一貫文を寄進されました。台順法師が如何なる人物か知る由もありませんが、当山の過去帳には享禄年間から文禄までの64年の長きを住持され、97才の高齢で示寂されたと記されています。
その後は無住の時代も続いたようでありますが、偶々20年前の本堂改築の折、旧本堂棟木に墨書があり、その当時の貴重な資料が見い出されました。それによれば元禄15年に客殿一宇が建立され、更にまた70年後の安永4年にも本堂が修復されました。また享保16年に没した第8世の堅者法印義元を中興開山とし、寺名を清岸寺と号したことも判明しました。
明治に入ると近隣の明教寺、宅蔵院の二ケ寺が荒廃して当山に合併されています。
戦後の昭和33年、当時としては斬新なコンクリート様式に本堂が改築されましたが、極めて短命な運命で、20年後の昭和54年に木造六間方形の現本堂を落慶しました。以後平成3年には新に山門を建立し輪奐を整えました。
なお、近年の調査により本尊は鎌倉期、奉安の薬師如来等は開創当時のものと判明しました。
7月22日 | 大施餓鬼会 |
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月2回 | 御詠歌の会・写経会(一般参加可) |