寺院紹介

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東叡山 寛永寺


 根本中堂
所在地 〒110-0002 東京都台東区上野桜木1-14-11
T E L 03-3821-4440
U R L http://www.kaneiji.jp
交 通 JR 山ノ手線/鶯谷駅 徒歩7分
開 創 寛永2年 (西暦1625年)
本 尊 薬師如来(三尊) 根本中堂

元和8年(1622)の暮、二代将軍秀忠は、かねてより敬仰していた天海大僧正のために一寺を建立することを決め、上野の山の17万坪の地に五万両と高輪御殿を添えて天海僧正に寄進した。
ただ、その翌年の7月には、将軍の座は三代の家光に譲られたため、実際に寺の創建に当たったのは家光であった。
工事は当時ほぼ自然のままであった上野の山の造成工事が先行したため、若干手間どり、本坊として、今の東京国立博物館の地に高輪御殿の移築が完了したのは、寛永2年(1625)の11月になっていた。
これが、東叡山寛永寺の正式の発足という訳だが、実はこの時の寛永寺は徳川家の菩提寺ではなく、祈祷寺(祈願寺)であった。
ところで、寛永寺建立当時の天海僧正の脳裡には、常に平安京(京都)と比叡山との関係があった。天海僧正は9世紀初めに桓武天皇と伝教大師・最澄上人によって建てられた鎮護国家の祈祷寺、比叡山延暦寺を、この江戸に再現しようと考え、幕府もこれに賛成したのである。
上野の山が寺地として撰ばれたのも、比叡山が京都御所から見て東北に当るのと同様に、この上野も江戸城の東北、すなわち鬼門に当るからなのである。こうして、寛永寺は徳川家の祈祷寺として創建され、すぐに朝廷の勅願所をも兼ねるようになるのである。
そんな訳だから、天海僧正の比叡山への固執ぶりは尋常なものではなかった。
山号を東の比叡山としたのも、寺号も時の年号を勅許を得て寛永寺としたのも、すべて延暦寺の前例に倣ったのである。
山号、寺号がそうである位だから、次々と造立された堂塔伽藍が比叡山を模していることは言うまでもない。
例えば、尾張、紀伊の両徳川家が建立した法華堂と常行堂は、比叡山の西塔の荷負堂の写しであり、根本中堂、山門(文殊楼)、釈迦堂などの主要伽藍は、すべて延暦寺に倣って造営されたのである。
しかも、天海僧正は比叡山を模するに当って、より広い考えをもっていた。この考えは、幕府の寛永寺建立の基本構想にはなかったものであるが、天海僧正は比叡山を写すと同時に、その周辺、具体的には、比叡山の所在地である山城(京都)と近江(滋賀)の両国から代表的な名所寺院を写し替えて、いわゆる江戸名所をつくろうとしたのである。
これは江戸における初の見立て(写し)の発想であり、きわめて注目すべきことなのである。そして、これがもととなって、やがて上野は新興地江戸屈指の名所となるのである。

 

 清水堂(重文)

 
不忍池の辯才天(近江竹生嶋)、清水観音堂(京都五条坂清水寺)、祇園堂(京都八坂)などがその例であるが、実はこれらが天海僧正個人の意志による建立であることを示す理由が二つある。一つは、寛永寺創建時からの基本構想に在る建物は、すべて黒門から入って本坊に至る一直線上に南面して造営されたのに対し、上記の諸堂宇は方向はまちまちであり、その上すべて中心線を外れた左右いずれかの地に建てられていることである。
もう一つはそれらの堂宇がすべて天海僧正自身の私費によって建てられていることで、当然のことながら、堂宇の造りは基本的にきわめて質素で、とうてい幕府による官営の伽藍とは比較にならない訳である。
しかし、実は同じ天海僧正の植えた桜の花と共に、後に上野が江戸市民の行楽の地となった最大の理由は、この天海僧正の見立ての発想に在ったのである。
ところで、こうして発足した寛永寺は、三代将軍家光の死(慶安4年1651)を契機に祈祷寺と共に、菩提寺としての性格も備えはじめる。やがて、家光の子、四代家綱、五代綱吉の両将軍が上野で葬儀をし、その霊廟も上野に設けたため、寛永寺は完全に菩提寺も兼ねることとなったのである。(本来の菩提寺増上寺との問題は割愛する)。
さて、寛永寺は年を追って寺域と寺領を拡大し、宝永6年(1709)の綱吉の死の頃には境内30万5000坪余(直轄地不忍池6万坪を除く)、寺領11,790石余、子院36ケ院、主要堂塔30余を数える文字通り東都随一の大寺院となっていた。
その上、表向きの寺領の拡大はここで止るものの、実質的な幕府からの加増はその後の将軍の時にも行われた。それは現金又は蔵米払いの形式で行われ、幕末には本坊と子院の固定年収だけで、3万5,000石は下らないものとなった。
なお、こうした寛永寺が天台宗内でどういう位置にあったかという点を化政期(1804~29年)頃の「東叡山本末帳」で見ると、直末寺433ケ寺、律院系直末寺9ケ寺、孫末寺607ケ寺、曽孫末寺335ケ寺、玄孫末寺2ケ寺、遠国孫末寺、曽孫末寺289ケ寺、御支配寺176ケ寺となり、実にその総数は1,851ケ寺にも及んでいるのである。
この数は少し時代の下った史料を見てもほぼ変っていないことが確認できる。(なお、この数の中には、寛永寺、日光山、金龍山などの、いわゆる一山地の子院百数十ケ寺は含まれていない)。
これによれば、江戸時代の天台宗寺院が、大きく比叡山系と東叡山系に二分され、その内東叡山系には九州国東の両子寺をはじめ、中部以西の寺院300余ケ寺が含まれていることがわかる。こうしたことは、江戸期の東叡山が天台一宗の総本山とも言うべき立場であったことと無関係ではない。
だが、その寛永寺は戊辰戦争で全山殆どを失い、その権威は急速に衰え、やがて天台一宗はすべて比叡山の下に統一される。
現在の寛永寺は、境内地は江戸期の十分の一の約3万坪で、堂宇としては、明治12年に川越喜多院より移築した根本中堂、徳川家霊廟(重文)、清水堂(重文)、辯天堂、開山堂(両大師)、本坊表門(重文)、釈迦堂及び子院19ケ寺がある。
又、寺の性格も檀家寺となり、江戸期の徳川家一色の時代とは趣きを異にしている。