所在地 | 〒153-0051 東京都目黒区上目黒5丁目16番6号 | |
---|---|---|
T E L | 03-3713-0639 | |
交 通 | 東急バス/渋谷発下馬一丁目循環バス | |
開 創 | 元和元年 (西暦1615年) | |
本 尊 | 阿弥陀三尊 |
壽福寺は正式には新清山観明院壽福寺といい、元和元年(1615)、大阿闍梨鳳算大和尚によって現在地に創建されたと伝えられていますが、その草創は更に朔り、室町時代末期の頃にはすでに草庵が結ばれていたと推察されます。
壽福寺周辺の地は武蔵野の一角とはいえ、無人の原野ではなく、縄文・弥生時代から人びとの生活が営まれていた土地で、中世時代には相当な生産力のある素朴な文化をもつ地域でした。永禄2年の「小田原衆所領役帳」に「江戸廻目黒本村」と記されていますが、この江戸廻目黒本村とは、のちの上目黒・中目黒・下目黒の三村を指すもので、後北条氏の時代には村落が形成されていたことを物語っており、当寺境内から板碑も発見されています。
寛永7年、三代将軍家光の外護により瀧泉寺が中興され、天海大僧正によって護国院と瀧泉寺の両寺一主の令書が下されましたが、壽福寺が瀧泉寺と本末関係を結んだのはこの頃と思われます。
青面金剛木造 |
本堂に安置される青面金剛木造は、寛文3年鎌倉の仏師、法橋三橋靱負と弟子伝之丞によって刻されたもので、寛文6年10月建立の庚申供養が、周辺地域における庚申信仰の中心となっていた事を如実に物語っています。
門前に安置される相生地蔵や石像の多くに第五世智皎と刻され、智皎代の寺運隆昌が偲ばれます。
明治に「神仏分離令」が公布され、壽福寺も子の権現、烏森稲荷の別当職を解かれ、境内地は官有地となり宗教活動に支障をきたす状態に陥りました。
明治8年2月本堂、庫裏を焼失しますが、明治13年12月孝乗和尚によって、行人坂、明王院の念仏堂を移し本堂としました。ここから壽福寺の現代史が始まります。良勉、良雄代に大正大震災と戦災の二大災害を乗り越え、昭和50年10月本堂、庫裏・山門を良文代に新築落慶、由緒ある「念佛堂」の扁額は今も掲げられています。