所在地 | 〒124-0014 東京都葛飾区東四つ木1-5-9 | |
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T E L | 03-3691-0210 | |
F A X | 03-3691-0275 | |
交 通 | 京成線/四つ木駅 徒歩10分 バス/木下川薬師前 JR 新小岩駅東北広場より |
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住 職 | 伊藤 義延 第61世 |
浄光寺の歴史は平安時代の嘉祥二年(849)にさかのぼります。延暦七年(788)に伝教大師が比叡山に一乗止観院(延暦寺)を開き、自ら彫刻された薬師如来像を安置すると、さらに東国教化を願い再び薬師如来像を彫られました。 途中まで彫り進めたところ神霊のお告げがあり、下野国に帰国する大慈寺の廣智菩薩に託されました。廣智菩薩は下総国木下川で唱翁に出会い請われるままに薬師像を唱翁の草庵に安置しました。その後浅草寺に滞在していた慈覚大師円仁はこの話を知り貞観二年(860)、弟子の慶寛に命じてその草庵に一寺を建立し浄光寺と名づけました。以来当山は木下川薬師として七堂伽藍を備え人々の信仰を集めることになりました。それから中世の戦乱の中でしばしば荒廃しますが、そのつど復興され近世を迎えます。
江戸時代に入り徳川家康公は当山に薬師如来供養料として朱印地を寄進され、当山は浅草寺の末寺筆頭の寺格を保つことになりました。家康公亡き後、江戸城紅葉山の霊屋の別当職に浄光寺が任ぜられ将軍家がたびたび当山へ訪れました。享保五年(1720)には将軍家御鷹狩りの御膳所ともなり、鎮護国家の道場として長く将軍家の祈願所とされました。江戸時代が最も花開いたとされる文化文政(1804~1830)のころになると寺運はますます隆昌し、寺域も広く、本堂、東照宮、観音堂、鐘楼、仁王門、大客殿、講堂、太神宮殿、山王権現、弁天堂、白髭社などの諸堂宇が甍を並べました。幕臣勝海舟も浄光寺を愛した一人で海舟の書簡なども当山に残されています。また明治十二年(1879)七月、西郷隆盛(南洲)の死を悼んだ海舟が南洲の留魂祠、留魂祠の碑を浄光寺境内に造立しましたが、現在は、洗足池公園に移転されています。
大正八年(1919)荒川放水路の開削工事のため浄光寺は南東600メートルの現在地に移転しました。釈迦堂の再建、仁王尊・仁王門の修復再建を経て平成十年には新薬師堂を再建し、明治維新より130年振りの秘仏本尊薬師如来の開帳大法会を行いました。その後12年ごとに秘仏本尊薬師如来の開帳法会を行うことになりました。